忍者ブログ
ケルティック・ハープで伝承曲を演奏しています。最近は、路上や公園のベンチでのんびり弾くことも多くなりました。
  • /03 «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • » /05
カテゴリー
プロフィール

HN:
こと座
年齢:
56
性別:
女性
誕生日:
1969/03/07
職業:
ケルティックハープ奏者
趣味:
旅、読書、祭り
自己紹介:
ケルティックハープで、ケルト民族の伝承曲を中心に演奏活動を行っています。

お気に入りサイト
カウンター

アクセス解析
バーコード
カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

ブログ内検索

Access Log
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

文庫版『心臓を貫かれて(下)』で目に止まったページは、『涙の谷間(Valley of Tears)』
の詩が載せられた箇所でした。

連れて行ってくれ 
私のいるべき場所に
口づけや歌に
心破られるところに
そこで私は、誰の心に触れもせず
この一生を終えよう
誰もが私をわかってくれる
涙の谷間に

優しい言葉が
甘く密やかに耳に届く
でも心に決めたのだ
愛に別れを告げようと
そこで私は、誰の心に触れもせず
この一生を終えよう
誰もが私をわかってくれる
涙の谷間に

1950年代にヒットした洋楽だそうですが、ゲイリー・ギルモアが一時期気に入って
よく聴いていた歌ということで触れられています。
詩だけ読んだときは、愛に失望を繰り返した人が涙の谷間という場所に行こうと
決意したという(そのまんま...)思いが静かに伝わるような内容に感じられました。
長年の苦しみに耐えて行き場を探していた人がやっと見つけた場所、それが涙の
谷間という場所だと教えてくれるような印象を持っていたら、曲を聴くと何かちょっと
違う感じ。
涙の谷間というのは聖書にある嘆きの谷のことで、辛い辛い現世(別の世がある
かどうかはともかくとして)を意味する言葉だと思っていたので、それをこの詩に
あてはめて考えると『心臓を貫かれて』で引用されたわけはこんなことかなと思った
のです。
子供時代に家族という社会に混乱した人が、成長して愛や幸福がこの世に存在
するかもしれないと知り、しかしやはり失望して行き場をなくした心が更に混乱し、
自分がいられるところは世間で愛や幸福があるとされる仮初の場所ではないと
気付き、涙の谷で一人悲しみを引き受けようと心の底から決意する。

行き場がなくなると、人は死という未知の世界を選択肢に思い浮かべるかもしれま
せん。ゲイリー・ギルモアも、その一生のほとんどを苦しみから逃れたいともがいて
いたのではないかと思います。けれど、ゲイリーが苦しみ暴力で周囲を破壊した後
に死刑執行を嘆願した一方では、兄のフランクや弟である著者のマイケルが似た
苦しみを味わい失望を繰り返し、現世の涙の谷を行くしかないと気付いた事情が
あり、そこここで待ち構える悪意の罠に人はどうして怯えて苦しめられ続けなければ
ならないのか、途方もない悲しみが書かれているのがこの本だと思えるのです。
人によって感想が異なるでしょうが、もっとたくさんの人に読まれ続けるべき本では
ないかと思います。

ゲイリー・ギルモアが自ら死刑執行を嘆願し処刑された一件は、7~8歳だった私の
記憶にも残っています。私は一種の自閉症で学校では授業にもクラスメイトにも教師
にさえほとんど無関心でしたが、アメリカで何年も行われていなかった死刑執行が
ゲイリー・ギルモアに行われるか否か、彼が自らも望んだとは知らなかったものの
この人が殺されませんようにと真剣に祈って友達にも死刑は嫌だと訴えた覚えが
あります。私が噂に参加するということは珍しかったので、友達にもそれまでの私と
少し違う印象を与えたかもしれません。
ゲイリー・ギルモアが銃で処刑されて以来アメリカでは死刑執行が再開し、日本でも
最近は死刑執行が通例となるきらいがあります。私にも一人だけ殺意を覚えた人が
いますが、大切な人を傷つけられてその報復に犯人を殺したいくらいだと言う人や
死刑で死んでもらうしか罪を償ってもらう方法はないと言う人を見ると、いつもわから
なくなります。人が裁かなければこの世は収集がつかなくなるという考えがあると
しても、罪とされるようなことを犯した人には他人が裁くよりもっと重い罰がどこかで
科されているんじゃないだろうかと思うのです。殺したいほど憎い相手がいても、憎
しみが増え続けていく世の中には決して平和は訪れないのではないでしょうか。
私は、憎しみが渦巻く家庭で育ち、家族が自然に笑い合ったり信頼できる愛情に
触れるという機会を逸しました。昔から愛情がある世界は別世界のことと当たり前の
ように思っていたし、もう一生知ることのない世界なんだろうというのが今行きついて
いる考えだけれども、未だに人が言い争う声をかすかに聞いただけで落ち着かなく
なる癖があり、世界が平和になってくれればとずっと思い続けています。どうしたら、
人は他人に責任転嫁する方法ではなく悪意を片付けることができるのでしょうか。

PR
<< 答えられない子 * HOME * 犬、走る DOG RACE >>

管理者にだけ表示を許可する
この記事のトラックバックURL

BACK * HOME * NEXT
BrownBetty 
忍者ブログ [PR]